こんにちは、kakeru編集部のおゆちゃんです。
今、SNSを何もやっていないという人はほとんどいないのではないでしょうか。
自分で文字を打ち、送信ボタンを押し、インターネット上に言葉を発する。
果たしてその言葉は、本当にあなたが考えたものなのでしょうか。
私自身、話題の映画を観た帰り道、SNSでただ「面白かった」と呟くだけではつまらないと他の人のレビューを見ることはよくあります。すでに多く上がっているレビューを読んでいるうちに、だんだん違う感想に変わってしまうことも。
そうすると私が抱いたはずの感想はどこにいってしまうのでしょうか。私の考えって一体どこ?そもそも自分の意見って一体なんなの?
誰もが自由に言葉を発する、1億総受け売り時代。
知らず知らずのうちに、他の誰かに影響されて「自分の意見」がなくなっている気さえします。もしかしたらすでに自分の頭で考えることが出来なくなっているのかもしれません。
そんな不安を解決すべく、今回、東京大学教授の梶谷真司先生に哲学の観点から相談に乗ってもらうことになりました。
梶谷真司/1966年、名古屋市生まれ。97年、京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は哲学、医療史、比較文化。著書に『シュミッツ現象学の根本問題――身体と感情からの思索』(京都大学学術出版会・2002年)、『考えるとはどういうことか――0歳から100歳までの哲学入門』(幻冬舎・2018年)などがある。
直感を根拠に繋げるためのステップ
おゆちゃん: 先生、今日はよろしくお願いします。
梶谷先生(以下、先生):よろしくお願いします。
おゆちゃん:早速なんですけど、最近「自分の意見」がよくわからないんです。
先生:どうしてそう思うようになったの?
おゆちゃん:SNSを頻繁に使うようになったことが原因かなと思っています。前よりも入ってくる情報量が多くなったことや、著名人がTwitterで発信しているのを見ていると自分の言葉で発信することがこわくなってきてしまって……。
先生:何がこわくなったんだろう。
おゆちゃん:適当なことを言って批判を受けることがこわいからかもしれません。感想や意見を共有したくなるニュースや出来事に遭遇したとき、何よりもまず「調べよう」と思ってしまって。検索するとたくさんの意見がすでに溢れているので、調べていくうちにどんどん意見に飲まれてしまって、自分自身の正解がわからなくなってくるんです。
先生:調べるのは悪いことではないと思うけどね。
おゆちゃん:はい。
先生:ただ、情報が多ければ多いほど処理で頭がいっぱいになってしまって、そこで考えられなくなるのは誰に限ったことではないと思うよ。
おゆちゃん:特に有識者の方たちが的確に述べている意見をみると、「なるほど」と感心してそのままになってしまうんですよね。
先生:そういう人たちは自分で考えて何か発しているというよりも、情報を組み合わせて処理する能力が高いんだと思うよ。
おゆちゃん:それは普通の人にはできないんでしょうか?
先生:能力値の問題だから、やろうと思ってすぐにできるものではないかもしれない。ただ、意見を述べている人たちを探すことは誰にだってできるよね。
おゆちゃん:探すんですか?
先生:例えば、何か事件が起きたときに、まず自分の”直感”が出てくるでしょう。「その通りだな」とか「なんでこんなに騒いでいるんだろう」とか、なんでも良いんだけど。
おゆちゃん:あります。直感はあるんですけど、説明はできないです。
先生:そうだね、なぜそう感じたかの説明はすぐにはつかないかもしれない。そうしたら、その直感に近い意見を言っている人から情報をもらっていくようにするんだよ。事件だとしたら、法律的な観点に基づいて解説している人がきっといるから、それを読んで調べてみる。調べた結果、「法律的にこういうことだから、自分はこう感じたんだな」と知ることができたら、おゆちゃんの直感は根拠のあるものに変わるでしょう。
おゆちゃん:なんでもかんでも調べていくよりも、直感を信じてみることが大切なんですね。
考えるきっかけは「なぜ」から始まる
おゆちゃん:いわゆる高学歴だったり、情報感度の高い人の意見はしっかり考えられているなと思うことも多いんですが、それと同時に「どこかで聞いたことある」って思うことも多い気がします。
先生:うんうん。ただの受け売りになっている人もいるよね。
おゆちゃん:それを見かけるたびにちょっともやもやしてしまうんです。それって本当に考えて言ってる?自分の意見なの?って。
先生:自分の頭で考える考えないってことと学歴は、あまり関係ないなと僕は思ってます。
おゆちゃん:関係ないんですか?
先生:もちろん知識はたくさん詰まっていると思うけど、情報を得ることばっかり上手になっても、そこから発展させていかないと意味がないと思うんだよね。
おゆちゃん:なるほど。
先生:例えば「学校に行く」って、大学まで行ってるほとんどの人にとっては「当たり前」のことでしょう。でも、そもそもどうして行かなくちゃいけないんだろう。
おゆちゃん:えっ、それは良い会社に就職するため……?
先生:じゃあ、就職をしない人たちは大学に行く必要はないよね。大学に行かなくても良いなら、受験勉強をする必要がないんだから高校にも行かなくても良いんじゃない?先生の話なんて聞かなくても良いんじゃない?
おゆちゃん:ああ……。
先生:そう考えてみると学校に行くって、ちっとも当たり前じゃなくなってくるよね。当たり前じゃないなら「なぜ」「どうして」行かないといけないんだろう。
おゆちゃん:なぜだろう……。
先生:そういう「なぜ」の繰り返しをすることで、人ってどんどん自分の考えが生まれてくるのかなって思うんだよね。
これは一つの例だけど、いわゆる偏差値の低い高校の子達は、望む望まないは別としてね、自分の目線で考えざるをえなかった子達が多いから、世間の「当たり前」に対して疑問を持っている子が多いんだよね。
おゆちゃん:当たり前だと思うと、そこで思考がストップしてしまいますもんね。
先生:そうだね。偏差値が高い子たちよりも彼らが考えていると言うつもりはないけど、考えるための材料は彼らのほうが多いかもしれないね。
大企業の人たちも会社がある程度完成されているし、お給料もしっかりもらえるから、非正規労働で働く人よりも複雑な悩みを持つことは少ないかもしれないよね。そういう人たちがさも自分で経験して考えた言葉のように話すから、聞いていてもやもやするんじゃないかな。
おゆちゃん:そうかもしれません。「当たり前」って流してしまうと思考が狭まってしまうんですね。常識を疑うことが、考えるきっかけになるのかも。
自分の意見は「誰を選ぶか」で決まる
おゆちゃん:先生のお話を伺ってみて、私も自分の頭で考えて意見を発信できるようになりたいと思いました。
先生:じゃあもうちょっとだけ考えてみようか。そもそも「考える」ってどんなときに必要なの?
おゆちゃん:え!仕事とか…?
先生:ほんとに?ただ、状況に応じて「判断」したり、周りへの「気遣い」をしているだけじゃなくて?
おゆちゃん:そう言われるとわからないかも…。
先生:僕は人間はいつだって考えていなければいけないわけじゃないと思うよ。とはいえ、自分の意見を持ちたいって気持ちがわからないわけじゃない。
おゆちゃん:自分で考えたつもりで意見を発信してみても、やっぱりどこかで聞いたようなものになってしまうんです。
先生:その「どこか」が信頼できる情報なら良いんじゃないかな。
おゆちゃん:そうでしょうか?
先生:僕が自分の意見を言うときに大切だと思っているのは「信頼できる情報に基づいていること」だよ。気分や願望に振り回されずに、その知識に根拠のある情報を選べばいい。
おゆちゃん:でもそれって、その信頼できる人の意見になりませんか?
先生:自分がきちんと信用できると感じている人から影響を受けるのは、僕はそんなに悪いことだとは思ってないよ。僕の意見はそれを「選んだこと」にあると思っているから。
おゆちゃん:選んだこと?
先生:誰を選んだかってところにあなたの意見があるでしょ。選んだとはいえ、その人の意見を100%鵜呑みにすることはなかなかないでしょう?そうしたら、そこで違いが出てくるじゃない。
おゆちゃん:「ほんとに?」と疑うことができたら、受け売りにはならないですもんね。
先生:そうそう。そうしたらまたそこで、信頼できる人を探して「選ぶ」といい。そうやって選んだ人の意見の組み合わせが、自分らしさに繋がるんじゃないかなって僕は思っているよ。
おゆちゃん:そうすると、オリジナルの意見というものはそもそもないのでしょうか?
先生:ないんじゃないかな。僕自身、どうやっても誰かの影響を受けていると思うし。それでも、何を組み合わせて今ここにいるのかは自分でわかってるから、それでいいんじゃないかな。
おゆちゃん:ありがとうございました。
何をみて、どこから感じた言葉なのか
自分独自の考えなんてものは存在しないし、もしかしたら必要すらないのかもしれません。
ただ、ここぞというときの直感は冴え渡るようにしておきたい。
そのためには常識を疑って、考えるきっかけを普段から作ってみることが大切なのだと感じました。
私が大切にするべきなのは「誰を選んだか」。選ぶ人がわからなければ、身近の信頼できる人や好きな芸能人から始めてみても良いのだと梶谷先生は教えてくれました。
いま、送信ボタンを押そうとしたその意見は、何をみてどこから感じた言葉なのでしょう。
一度振り返ってみてはいかがですか?
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